こんにちは♪
みずのこです。
今回は、前回のテーマを少し掘り下げながらお話をすすめていきたいと思います。
お時間のゆるすかぎりお付き合いいただけましたら幸いです。
それでは、さっそくいってみましょう♪
さて、あなたは日々起きるさまざまな出来事について『ありのままに感じたこと』を話すという行為をどこか「ワガママなこと」「めんどうくさい」「こわい」などというふうに感じてしまい、結局伝えたかった想いを言わずに飲みこんだご経験はないでしょうか?
もしかすると、今まで数えきれないぐらいの言葉を飲み込み、「相手に想いを伝えること」を諦めている方もいるかもしれませんが、それは例えば、ずっと昔、両親にたいして「言いたいことを素直に言えなかった」ことが初まりだったかもしれません。
いろんな家庭環境があると思いますが、『養育者』として同じ屋根の下に住んでいた最初の大人。
その人は、どんな人だったでしょうか。
この世の中に、体は成熟していても『精神的に幼稚』な大人がどれだけいるのでしょう。
あくまでわたしの体感にはなりますが、おそらく90%以上の「大人」といわれる人たちは、「なんにもわかっていない未熟な人」だったりします。
(※ここでは『幼稚』=「年齢が幼いこと、考え方・やり方が未発達なこと」を表します。)
体が大人だからといって、心も大人だとは言い切れません。
実は、あなたの周りには、精神的に未熟な「おとなの皮をかぶっている男の子と女の子」で溢れかえっています。
それは現実です。
ですので時に、年下のあなたが年上の人に対して悩ましく思うこともあるかもしれませんね。
またあなたは、今まで大人にたいする「期待」や「希望」が叶わずになにかしらの形でショックをうけたことがなかったでしょうか?
特に、実の母親・実の父親にたいして、”自分の心を踏みにじられた”と感じた瞬間に、素直にその「いやだ」という想いを伝えられていたでしょうか。
保育園・幼稚園時代はどうでしたか。
小学生時代はどうでしたか。
中学生、高校生時代はどうでしょう。
親の見ていないところで、まだまだやわらかい純粋な心をもっているこどもたちは日々、ほんの少しの自由の中で本当によくやっています。
しかし、親は家でのわが子の様子をみて、自分にとって都合の悪い・心地が悪い場面をうまく切り取り、せまい自分の価値観でいろいろと命令してきます。
親は”そこ”には気づかず、一見「良かれと思って」やっていることの方が多いでしょう。
でも、その裏では「わたしを不快な気持ちにさせないで」「面倒は避けたい」というワガママが隠れています。
自分がこどもやトラブルに上手く対処できないと、余裕がなくなりいらだってしまうから。
さらには、忙しすぎて時間がない。
心に余裕がない。
なので、本当はあなたにイライラしているわけではない。
自分自身にイライラして、心のやり場がなくなっているだけです。
都合の悪いものは見たくないのです。
本当に必要な世話をせず”余計なお世話”が多いのは、親自身が傷を抱いたまま何十年も必死で生きているから。
特にこのご時世、いつも余裕しゃくしゃくでこどもを育てられる人がいるのでしょうか。
正解がわからない子育て。
だから、心はずっと迷子。
つまりある意味では”こども”なのです。
やわらかい心がカチカチになっている大きな人。
それが大部分の”大人”なのかもしれません。
『どうすればいいのかわからない』。
これが、もしかしたら親の「本音」なのかもしれません。
親はこどもに育てられる。
という、わたしの勝手な一つの見方ですが、よろしければ参考にされてみてください。
否めない点は、みんな自分が見えているものだけを見ようとするクセがあるということです。
それは、さかのぼると何代にもわたる家系のクセでもあるかと思います。
多かれ少なかれ、思想・価値観は、子孫に影響を与えてしまいますからね。
そういった理由で、「自分が見てきたもの(データ)が全てだ」と言いたげな様子でいる大人たち…たくさんいると思います。
しかしそれでは、こどもにとって家庭が「安心できる居場所」になるはずもありません。
本当は、親よりも子の方が、純粋に親のことを想い考えている場合のほうが多いようにも思えてきます。
親の心子知らずといいますが、わたしは「子の心親知らず」だとつくづく感じた時期がありました。
それは、わたし自身が自分を愛することができずに心にゆとりがなかったことが原因だと思っています。
つまり、未熟だったから。
わたしたち大人が感じている世界は、ある意味鈍くけがれに慣れてしまっているようです。
この世界は”こんなもんでしょう”と。
「自分を愛する?一体そんなことになんの価値があるのか」と。
しかし、さまざまな人生の背景があり、親の立場・子の立場、それぞれ何かとあるとは思いますが、少なくとも、体も小さく柔らかい純粋な心をもっているこどもにたいしては、特に親、そして周囲の大人があたかかく見守り、寄り添うことが大事な部分ではしっかり寄り添いながらサポートをすることがなにより大切だなと感じています。
学校や友達関係でたくさん失敗をして経験を積んでいく間、子どもたちには休む間もなく日々乗り越えなければならないたくさんの課題に直面しています。
だからこそ、親は世間ではなくこどもの心身をしっかり見てあげて、子どもが望む愛を与えることが自然なことなのではないでしょうか。
なぜなら、とにかく、こども自身が「愛されている」と実感できていることが大事だと考えているからです。
親自身が「どうすればいいかわからない」のであれば、こどもに「どうしてあげればよいかわからないから、あなたかがどうして欲しいのかをら教えてほしい」と、こどもの声を聞くのです。
「世間の常識」や「親の常識」などは、二の次三の次。
親自身の「つまらないプライド」は、特に1ミリも必要がありません。
第一に大事なことは、こどもが今何を感じ、何を求めているのかを「素直に伝えられる環境」をつくり子どもが安心できることだと思います。
決してこどもを子ども扱い(赤子扱い)せず、一人の尊い人間として何歳であろうと意見にしっかり耳をかたむけ、決して親の意見を押し付けることなく、それでいて周囲との調和がとれるように親の意見もすり合わせながら、お互いが結果的に〇になるように話し合うこと。
これが、平和な家庭・親子の在り方だと思います。
こどもにとって必要な環境とは、人や生活環境に疲れ、心が苦しくなる場面で
「助けて」「話を聞いて」「守って」「怒らないで」「暴力ふるわないで」「干渉しないで」
そんな気持ちを、遠慮せず素直に言える居場所があることです。
さて、あなたは今まで親とコミュニケーションがとれる環境にいたでしょうか?
ここで、「いいえ」と答えたあなた。
安心してください。
もうすでに、ずいぶん長い文章になってしまっていますが、ここからヒントになるようなことを書き足せればと思いますので、よろしければもう少しだけ読み進めてみてくださいね。
モヤモヤしていることがあるとすれば、ちょっとの本音をたくさん細かく書き出していくことで本心に辿り着くことができる場合もありますよ。
参考程度にはなってしまいますが、わたしは、書き出すことが自分にあっていたのでこれで採用しました。
今まで親にたいして言いたかったことを、ひたすら気がすむまで紙に書きだしていく。
「もういいや」と思うまで、あの時感じた『緊張』を体に残さないようにしていくんです。
すると、いくつかの共通点が見えてきます。
実は、昨晩わたしの12歳の娘と一緒にこれをやってみたんですね。
時間にして1時間ぐらいじっくりと向き合ったのですが、娘は途中何度か泣き、体の数か所がガタガタと震え落ち着いた後、こう話してくれました。
「体からゾワゾワ~っと毒ヘビが何匹も出ていった感じ。あぁ~やっと安心できた!小さい頃のわたしにタイムマシーンに乗って会いに行った気分。ママ、タイムマシーンって本当にあるんだね。”自分を愛する”ってよくわからなかったけど、それはきっとこの毒ヘビたちががそうさせなかったんだよ。自分を大好きになんてなるな。って、そうさせられていたんだよ。でもね、今はもう毒ヘビは家出したし、そこにあった卵もぜんぶ消えた。こころから「そうだよ!そうだよ!」ってはっきり聞こえる。小さいころのわたしが本当に喜んでいる。わたしの心のそこにあったもの思い出したよ。『千と千尋の神隠し』のハクが自分の名前を思い出したシーン。本当の名前を思い出したときにハッとしてパリン!!って鱗が全部取れて、人の姿にかえったシーンにすごくよく似てる!!今日は、人生の中で一番しあわせだよ。」
と。
そして、その歓びは今日もなお続いています。
本当の自分を思い出すと、表情があかるく輝きだすんですね。
さて…
なぜあなたは、声をあげられなくなったのでしょうか。
過去のご経験から「言ってもわかってくれない」とか「言ったところでなにもかわらない」という意識が生まる前から、まだ言葉を知らなくて「言語化できない想い」(悲しみ・恐怖心など)を感じながら今までの人生、一人で自分を守るために戦ってきたかもしれません。
あなたはそれが「いつから」かもわからないぐらい昔の話のなかで、時が流れた今この瞬間も生きているのかもしれません。
いつから、あなたは自分の「心の声」を無視するようになったのでしょうか。
そしていつから、その声が聞こえなくなってしまったのでしょうか。
あなたに「心の声」が届かなくなった原因。
それは、なんでしょう。
おそらくあなたは、わたしではない「誰か」の冷たい一言や目つき、暗い顔つきで「こんなことを言っちゃダメなんだ」とショックをうけ体がこわばったいつの日から、”本当の思い・真っすぐな意見”を隠すようになってしまったのではないかと思います。
そして、あなたは自分を守るために真剣に作戦を考え、息をひそめながら(本当の自分を隠しながら)生きてきたのかもしれません。
それは例えば…
『人の目を見ずに話す』という選択をすること。
『できるだけ目立たないように、大人しく過ごす』という選択をすること。
または『人気者のあの人のように、がんばって明るく振るまう』という選択をすること。
いろんな方法で、それらを何個も組み合わせながら、本来の自分でない自分を演じることによって、あなたはあなたのことを、誰にも頼らずにたったひとりで、心ぼそくていつ切れてもおかしくはない心の糸を、千切れてしまわないように自分の手で全力で守ろうとした。
もしも、そうなのであるならば…
それはきっと、その時の精いっぱいの自分への「愛」だったに違いありません。
だから、今まであなたがどんな選択をしていたとしても…
たとえ、人から非難され、笑われ、一瞬は恥をかいたとしても…
がむしゃらにもがいて、自分の頭で考えて考えて絞り出した答えであるならば、それはどんなことでも正しい選択だったと、そんな風に認めてあげてもよいのではないでしょうか。
人間とは、たくさん失敗して、恥をかいて、そんなことを何回も繰り返しながら学んでいく生き物なのではないでしょうか。
一歩一歩まえに進んでいければ、それで花丸ではないでしょうか。
だから、後悔なんてしなくていい。
たくさん失敗した人こそ”真の成功者”だとわたしは思います。
実は、この世は失敗を恐れて行動できない人の方が多いのです。
その中で、”失敗した”=”挑戦した”ということにどれだけ価値のあることなのか。
それは、勇気をだして行動したからこそ起きた現象であって、成功に一歩近づいたというだけのこと。
すべては学んでいるだけなのです。
なので、何度も失敗してきたということ=あなたを生きようとしている証拠なんですよ。
自分以外の「どこかの誰かさん」の意見に流され、なんとなく、間違いのないように無難にテキトーに、何もかも分かったような顔ですべてを斜に見ながら生きている人よりも、不器用で泥臭くても真剣に人生に向き合おうとする人の方がずいぶん美しい。
と、わたしは思っています。
きっと、このブログを今読んでくださっているあなたは、ご自分のことを「生きている価値がない」とか「いないほうがマシ」とか「消えたい」と表面上は思っていたとしても、本当は「自分らしく生きたい」とか「もっと笑っていたい」とか「愛を知りたい」とか…そんな経験をご自分にさせてあげたくて、それはご自分のことを間違いなく大切に思っているからこその行動であって、このブログに辿り着いてくれたと思うんです。
愛想笑いが上手にできない、ウソがつけない真っ直ぐなあなた。
そんなあなたがわたしは好きです。
どんなに辛くても、今這い上がろうとしている。
そんなあなたのことが、わたしは好きです。
あなたには、ちゃんと本当の自分の姿がみえている。
だからこそ、行動しているあなたに感動してしまうんです。
美しいんです。
本当は、頭で考えて考えて考えて絞り出した答えより、思考がなくなったその時に本当の”こたえ”はあります。
そして、そこには”至福”という、本当に手放したくはない最高の”もの”が存在しています。
その”もの”を言語化するのはとても難しいのですが、きっとそれは生きとし生きるものすべてに宿っている『歓びの種』とでもいいましょうか。
それが消えると(感じられないと)、突然また現実の闇に突き落とされるかのような、それぐらい絶対的な光なんです。
お話がすこし脱線してしまいますが、わたしは2012年夏のある夜に、突然思考がプツっと切れてしまい30分間だけこの世の本当の姿を知る機会をいただいたことがあるんですね。
当時29歳でひどい鬱病でしたが、それまで一度も体感したことのない”至福”という感覚をこの時はじめて体感し、この世はすべてが愛でできていることを感じてしまいました。
「今なら言える。すべての人に心からの「ありがとう」を。これが『空』なのか。」と。
言葉で表現するには限界がありますし急に不思議な話になってしまいましたが、お話ししたいことは、すべては『ただ在る』だけなんだということ。
あなたは「何一つ欠けていない」ということ。
この世から「欠けてはいけない」のです。
だから、ひとつも誰にも何にも怯える必要なんか一切ない!ということなんです。
みんな、誰一人のこさず”ただそこに在るだけ”なんです。
今日は、いつも以上に話が脱線してしまい、読みづらい点もあったかと思いますが最後までお読みくださりありがとうございました。
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